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theatre tokyo / creator’s park スペシャルインタビュー

2014.06.25 up
theatre tokyo スペシャルインタビュー
       

Vol. 16 映画が生まれる瞬間(とき)
『消えた画 クメール・ルージュの真実』をめぐる旅 リティ・パニュ監督

“Absolute Picture”, a Journey to the Moments of “The Missing Picture
with Filmmaker Rithy Panh



text /photo:Junko Homma
special thanks to French Japanese interpreter: Yuko Hitomi


これまでリティ・パニュ監督といえば、カンボジアのクメール・ルージュ政権時代(1975年4月17日〜1979年1月7日)の大虐殺や戦後を必死に生きる市井の人々を日本に伝えてくれるカンボジア映画監督だった。だが、日本のわたしたちが3.11の震災の後、日本では初めての劇場公開作品となる新作『消えた画 クメール・ルージュの真実』に出会うということは、おそらく、監督のこれまでの作品とは異なる状況で観ることになったのではないだろうか。カンボジアと日本。スーザン・ソンタグが『他者の苦痛のまなざし』(2003)で言うところの「他者」であったであろう、アジアの2つの国がこれまでにはない近接さをもって交錯するときを迎えている。例えば、酒井耕監督・濱口竜介監督の東北記録映画三部作『なみのおと』(2011)、『なみのこえ』(2013)、『うたうひと』(2013)、あるいは、松林要樹監督の『相馬看花—第一部奪われた土地の記憶—』(2011)、『祭の馬』(2013)といった日本のドキュメンタリー映画を観るように、わたしたち自身、自らの記憶の中にある「失われた映像」と向き合いながら、観ることになるだろう。

革命の敵とされる都市的な文化、知識とみなされるものをすべて否定し、破壊するというクメール・ルージュ政権が農村中心の理想の国家を建設しようとする中で、虐殺、飢え、病に倒れた100万人を超える犠牲者たちの眠るカンボジア。リティ・パニュ監督が新たな映画の語り口を模索してつくられた新作は、その大地からつくられ、魂を宿した人形たちによって語られる。昨年11月、東京フィルメックスでのジャパンプレミア上映後のQ&Aでのこと。少年時代、隣人が映画監督でその撮影風景を見学していたという映画中のシーンについて、もしクメール・ルージュが政権を掌握していなかったら、その少年は、現在の監督のように映画監督になっていただろうか、という筆者の質問にまず「宇宙飛行士ですね」と答えて、会場の笑いを誘った後に、こう監督は答えられた。「父親がそうであったように、教師になっていたでしょう。教えることが好きですし、教師というのは美しい職業なのです」。その翌日に監督に本作について、また本作のベースともなっている監督とフランスの作家クリストフ・バタイユとの共著「The Elimination A Survivor of the Khmer Rouge Confronts His Past and the Commandant of the Killing Fields」(原題:L’élimination, 2012、 現代企画室より邦訳版『消去 虐殺を逃れた映画作家が語るクメール・ルージュの記憶と真実』が7月初旬に刊行予定。)について、また、監督がカンボジア国内で力を入れているボパナ映像資料センターや映画祭についてインタビューをさせていただいた。その日から半年の間に、日本そして世界各地で情勢が日々厳しい状況へと変化している。このような世界の中で映画はいかに生まれくるのだろうか。誰とその映画をつくりたいだろうか。誰とその映画を観たいだろうか。『消えた画 クメール・ルージュの真実』をめぐる監督との対話の旅を、経済的に政治的に独裁的な力が強まる社会の中でいまを生きるわたしたちがともに辿り、新たな1ページへと踏み出すことを勇気づけることばとなることを願っている。



心の奥底にある大切なものは、本当に手放さないということが大事なのです。それはちゃんと守っていれば、誰も破壊することができないものです。




これまでも作品を通して、ある部分で「失われた映像」を映像化されてきたかと思いますが、今回、『消えた画 クメール・ルージュの真実』で直接的に自らの体験を一人称で語ろうと思われたのはどうしてですか?

リティ監督:
自分の中の成熟というものがある程度まで達するまで、この個人的な物語というものをできなかったんですね。この時代の自分の経験に対して、ふさわしい距離というのを見つけたのが、今のタイミングだったんです。そのときに単に語るのではなく、映画的語り口を見つけるということが今回とても大切でした。10年前に一人称で語ることができたかもしれませんが、今回のようなアプローチとは異なっていたのではないでしょうか。もしできていたとして、それがいい作品になっていたかはわたしにはわからないですけれども(笑)。10年前にそういう自分の言葉で自分の物語を語るということを、やりたくなかったわけではないんです。でも、関心という意味では10年前よりも今の方が強いですね。無理強いというのはやはりやってはならないことで、本当に自分でやりたいと思ったときに着手をしないといけません。やらなきゃいけないからやるんだ、という態度ではダメなのです。

今回の作品のような作品は自分にとってもやはり特別で、今までの作品と同じような語りではできなかったわけです。もちろんわたしのキャリアで言えば、それぞれの作品がわたしにとって特別なわけですけれども。必然性をもってその映画が撮られたいというときに、その映画というのは撮られるべきだと思います。なぜこの映画をいま、撮らなくてはならないのかという必然性ですね。それをどういう風に撮るかということが大切です。


© CDP / ARTE France / Bophana Production 2013 – All rights reserved

『消えた画』の中で、おそらく監督自身の子ども時代を表している人形の服装は華やかで黒くはありませんでした(実際のクメール・ルージュ政権下では皆黒色の服の着用を義務づけられていた)。それにはどのような思いが込められているのでしょうか?

リティ監督:
(笑)。それは象徴ですからね。非常に苦しい時代にも非常に複雑な条件下でも自分の心の奥底にあるものは常に保っていなければならないんです。それは一つのイメージかもしれないし、ある一つの思いかもしれない。そのようにすごく大切なものは、持ち続けていなければいけないと思います。それはちゃんと守っていれば、誰も破壊することができないものです。だから自分にとって非常に大切なものを、本当に手放さないということが大事なのです。そのことによってその人が非常に過酷な状況にあっても、人間であり続けられるものだと思います。まだ想像するという人間の力を忘れていないということです。

監督の書かれた「The Elimination」の中でも、非常に印象的な箇所があります。クメール・ルージュへの抵抗から食事を断つことで人間としての威厳を正していたお父様が亡くなられた時、お母様と共有された、お母様の語られた、本来であればそうあるべきだった想像上のお葬式のイメージに、「独裁下にあっても、人は真のイメージを映画として記録することができる」と、監督の「映画への信念はそのときから来ている」と記された場面です。

リティ監督:
そうですね。そのときにきっかけが無意識で生まれているかもしれません。やはり伝えたい、表現したいという欲求が生まれたと思いますね。破壊するという行為を人間はしますけれども、どれだけ破壊されても、人間の頭の中にある思いというのは誰にも破壊できない、という信念があります。どんな政権にも人間が頭の中で考えていることは消せない、とわたしは思います。母は語ることによってレジスタンス的な行為をしていたのだと思います。死というものは、独裁政権下においては非常に軽いものとして扱われてしまった。それをわたしの母は拒んだのです。そのように人間の死というものを本当にゴミ同然に扱うという、実に破壊的な政権だと思っています。それを母は強く感じ取って、そういうものに流されないというレジスタンスだったのです。

それを子どものわたしにどういうふうに伝えればいいのかということを、彼女自身も意識してはいなかったと思います。ですから母は、父が威厳をもって葬られたということを語ることから伝えるという方法を見出したのだと思います。つまり、言葉という表現によって葬儀を執り行うということです。失われた、欠落した映像というものに生命を吹き込むということだったんです。 

そのシーンは農民の生活としてですけれども、『ネアック・スラエ、稲作の人びと』でも映像化されていますね。

リティ監督:
ええ、今回の『消えた画』の中でも挿入していますが、私の作品では、一度使ったからおしまいではなく、作品同士で常にコミュニケーションがとられています。


1914年にフランス領インドシナのヴェトナム、ホーチミンで生まれ、1933年にフランス本国パリへ渡り、第二次世界大戦中は対独レジスタンスに参加したマルグリット・デュラスもまた、同じモチーフをくり返し扱った作家である。現地人学校の校長であった父の死後、同じくフランス領インドシナのカンボジア、カンポット県でやっとの思いで母が手に入れた土地が、フランス人官吏によって騙された、海水のために不毛な土地であった。同時期のデュラスのフランス本国帰国を目前とした少女時代における裕福な中国人青年との邂逅を主題としたのが『愛人 ラマン』(1984)であり、後年『北の愛人』(1991)に登場する少女が「いつか書くつもり、あたしの母の物語を。どうやって母が打ちのめされたか、という物語」と中国の男に語っているように、当時の土地を巡る母の苦悩の物語を主題に発表したのが『太平洋の防波堤』(1950)であった。

Twich」でのMichael Guillenによる2008年のインタビュー「TIFF08: UN BARRAGE CONTRE LE PACIFIQUE (THE SEA WALL)— Interview With Rithy Panh」によれば、リティ・パニュ監督がデュラスと出会ったのは、原爆後のヒロシマで生きる日本人男性とドイツ軍占領下のフランスで敵兵を愛し、断罪された過去を持つ女優を通して、それぞれの祖国の土地の持つ歴史と記憶が交錯するときを描いた『二十四時間の情事』(1959、原題:HIROSHIMA, MON AMOUR)の脚本が最初だった。アラン・レネ監督のナチスがアウシュヴィッツ強制収容所で行ったホロコーストを主題としたドキュメンタリー『夜と霧』(1955)と『二十四時間の情事』に感銘を受け、「映画が自分自身の物語を表現するための手段となることを気づかせてくれた監督である」と語っている。

 子供の死者がおびただしく、水牛の背にまたがって歌をうたえるようになるまで育ってゆく時間にめぐまれた子供たちよ り、はるかに多くの死児がこの平野の泥の中には埋もれているのだ。あまりに死ぬ子が多いため、もはや親たちも悼んで 泣くこともせず、もうずっと前からお墓すら作らなくなった。ただ、仕事から帰ると、父親が小屋の前に小さな穴を掘っ て、そこに死んだ子を寝かせる。

マルグリット・デュラス『太平洋の防波堤』(1950)



1950年に出版された『太平洋の防波堤』で表象された、飢餓のために子供の生命が自然淘汰されていったというこの土地の記憶が、数十年後にクメール・ルージュの恐怖政治によって、人為的に繰り返された情景とともにオーバーラップされ、複雑な心象風景を呼び起こす。リティ・パニュ監督は2008年、デュラスの母が「ユートピア」を築くことが叶わなかったまさにその土地で、この「太平洋の防波堤」(原題:Un Barrage contre le Pacifique、イザベル・ユペール、ガスパール・ウリエル主演、日本未公開作品)を撮影している。地元英字紙「The Phnom Penh Post」2009年3月3日付「Walking in the footsteps of Marguerite Duras」によれば、その土地は1940年代にフランス人エンジニアと村人によって干拓が始まったものの、第2次世界大戦から独立戦争に続く内戦のために1990年代になってようやく農業のポテンシャルが注目されるようになり、フランス開発機構の経済協力によって再建された。2008年には海水の浸食からその土地が守られるようになり、デュラスの母の希望は”実現”された。

 



荒波に飲み込まれるような苦しみを抱えながら、生き残った者たちは生き続けている。




『消えた画』には波のシーンがありました。あれは監督が13歳で難民キャンプを経て渡ったカンボジアとフランスの間にある海ですか、それとも「太平洋の防波堤」の海、あるいはすべてが喪われてしまったという「津波」のようなものですか?

リティ監督:
それはそうですね。それは苦痛であり、苦しみを表現しています。生存者の苦しみというものですね。この苦しみを抱えながら、生き残った者たちは生き続けているという。波というのは、息継ぎもできるときもあれば、飲み込まれるときもある、そういった動きのある波で、生き残った人たちのそういう苦しみを表現しています。荒波に飲み込まれるような、苦しみに飲み込まれることも我々生存者にはあるんです。でも溺れないように我々は何とか息をしなければ、ともがくわけです。


東京フィルメックスでのジャパンプレミアから3か月後、「The Missing Picture」の公式Facebookページ上で、米アカデミー賞外国語映画賞ノミネート(カンボジア)で人形のリティ少年よりハリウッド到着を伝える画像が配信された。「The Elimination」の中で語れている、カンヌ映画祭のコンペティションに『ネアック・スラエ、稲作の人びと』が選ばれたときの回想が強いコントラストをもって思い起こされた。当時、わたしたちはカンボジアを伝える素晴らしい監督の存在に世界の遠くから喝采を送っていた一方で、監督自身は睡眠障害が起こるなど健康状態が悪化し、独り、とてつもなく深い苦しみの中にいた。大きな悲しみは「この幸運を両親と分かち合えないこと」だった。20年近く経ち、今、『消えた画 クメール・ルージュの真実』とともに、リティ少年はカンボジアはもとより、世界中の多くの人々の声援を受けて、ハリウッドの地に立っていた。まさに『レ・ミゼラブル』の「夢やぶれて」の如く非人道的な政治体制によって打ち砕かれた甚大な数の人々の夢を背に、リティ少年はハリウッドの地に立っていた。





© CDP / ARTE France / Bophana Production 2013 – All rights reserved


非人間的な人間に誰もがなるわけではない




プノンペンで開催されるカンボジア国際映画祭2013では、インドネシアの1965年の9.30事件後に起きた「共産主義者狩り」の大虐殺に関与した虐殺者を巡るドキュメンタリーである、ジョシュア・オッペンハイマー監督の『アクト・オブ・キリング』(The Act of Killing, 2012) も上映されますね。『アクト・オブ・キリング』では、特別ではない、平時であればごく当たり前の人間が、ある状況の中で起こる非人間化のプロセスと、映画での当時の行為の再現を通して加害者自身が追体験する人間化のプロセスについて考えさせられました。監督の『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』(2002) から受けた印象は、どんな人間も恐怖政治のシステムの中で非人間化しうるのだということでした。

リティ監督:
非人間的な人間に誰もがなるわけではないですよね。人間というのはいつも選択肢を持っていて、いかなる極限の状況にあっても、非人間化しない選択肢というのはあると思います。もし、命が危険に晒されているとしても、自分にとって良い選択をするべきだと思います。虐殺者は虐殺者という責任を全うしなければならない。映画というものは、虐殺者をもう一度人間化する必要はないと思います。



さて、ここでわたしたちは、アメリカへ亡命したユダヤ人政治哲学者ハンナ・アーレントの『イェスラエルのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』(1963)との間でいくつかの問答を繰り返すことになるだろう。ナチスの官僚としてユダヤ人の強制収容所や絶滅収容所への移送という「ユダヤ人問題の最終的解決(大量虐殺)」の実行責任者であったアドルフ・アイヒマンは、戦後逃亡先のブエノスアイレスでイスラエルの諜報機関によって逮捕され、連行されたイスラエルでの国連も承認した裁判において、死刑判決を受け、1962年絞首刑が執行された。リティ・パニュ監督も「The Elimination」の中で、アーレントの「虐殺装置の歯車」、「思考の欠如した悪の凡庸さ」に、また同じくユダヤ人で心理学者のスタンレー・ミルグラムの行ったホロコーストが起きたメカニズムを理解するための「権威に対する服従実験」に触れている。個人の独自性を信じる監督は、処刑や拷問を行った人間の中には「普通の人間」もいることを否定しないが、12000人以上を拷問し、処刑を行っていたS21尋問センター司令官ドゥイは「普通の犯罪者」ではなく、「思考する人間」であり、「誰にも彼の立場を奪えない」と述べている。2012年2月、クメール・ルージュ特別法廷がドゥイに下した判決は、リティ・パニュ監督曰く「比較的軽い」判決、終身刑であった。




監督の著書の中で「ドゥイはどんなときも人間なのである。」と記されており、監督の映画「ドゥイ、地獄の刑務所長」(Duch, Le maître des forges de l’enfer, 2010)でも監督がドゥイが人間であるように見えるけれども、そのことを肯定しないということを観ました。

リティ監督:
もちろん彼らは人間です。でも「虐殺者人間」なのです。「虐殺者人間」であるということからは離れられないんです。虐殺者という形容詞を外すことはできません。だから映画監督としてわたしは、彼らをもう一度人間に戻すということはしないでしょうね。どれくらいの罪を犯したのかという問いに対して、彼らは答えるべきだと思うんです。人間には虐殺者たちであっても彼らが改心して、彼らもやはり人間なんだなということを聞きたいと思う気持ちが誰の心にもあると思うんです。


あなたは書いて、私は映画を撮る。考えたり、観たり、伝えるために。記憶を伝えるということは、亡くなった犠牲者の威厳の復権につながるのだと思って取り組んでいます。




そういうことを問い続けられるのは、虐殺者である人間であるということを浮かび上がらせるダイアローグを継続することができるのは、カメラがあるからできることですか?監督は著書の中で「自分の映画は決してレスポンスやデモンストレーションとして考えたことはない。問いかけることであると思っている。」と記されています。加害者を責めるのではなく、問いかけるダイアローグが可能になるのは、映画、つまり、カメラがあることが重要な装置であると考えられますか?

リティ監督:
いえ、カメラなしで元虐殺者に何度も会いに行っていますから、カメラは必要はないです。カメラなしで会うということが大事ですね。でも彼らと会うからといって、彼らを許したということとイコールではないんです。カメラは道具でしかないんです。あなたにとってのペンであるように。あなたは書いて、私は映画を撮る。もちろん考えたり、観るために映画を撮るわけですけれども、それは道具なんです。


The Elimination」では、もう一つの「失われた映像」、「打ち消された声」が語られている。クメール・ルージュ特別法廷で検察が証拠として提出したのは、S21尋問センターのカメラマンが撮影し、残っていた写真ではなく、俳優が再現した「フィクショナル・ドキュメンタリー」であった。また、「しっかりと保存されていた」、「3色のインクで隈なく書き込まれた尋問調書」も徹底的には活用されなかった。リティ・パニュ監督はそのような検察官を「到底受け入れ難い」と思い、そのような司法制度における「正義」のあり方に、「正義は真実ではない」と疑問を呈している。当時のS21尋問センターは現在トゥール・スレン虐殺博物館として、虐殺の記憶をいまに伝えているが、そこで所蔵するこの「自白」書関係資料はユネスコの世界文化遺産「Memory of the World」(2009年9月登録)に登録され、沖縄の平和祈念資料館の国際協力事業によって、博物館の展示資料へと活かされている。






監督は加害者だけではなく、喪われた人の生きた記憶について、尋問調書などをアーカイブスで目を通してこられて、カンボジアの虐殺についてこれからも問い続けていかれます。その原動力は何でしょう?

リティ監督:
永遠にやり続けますよ、もちろんわたしは死ぬけれども(笑)。われわれが生き残ったのは何も被害者、犠牲者よりも賢かったからとか、力があったからとかではなくて、われわれが生きているのは、亡くなった犠牲者のおかげでわれわれは生きているというような意識を持っています。だからこそ、あの人たちがどういう人たちだったのかということを伝えるというのは、最低限にやらなければならないことだと思っています。それこそが記憶の作業だと思っています。記憶を伝えること。こうした犠牲者の威厳であるとか、勇気といった、そういうものをわれわれ生かされた者は伝えていかなければなりません。ですから死者に対しても威厳というものを、映画監督として再び彼らに持たせてあげたいのです。そのためにはやはり記憶というものを無視して生きるのではなくて、記憶というものを伝えるという作業の中でこそ、それが可能だと思うのです。それは映画であってもいいし、本であってもいいんですけれども、伝えるということは、彼らの威厳の復権につながるのだと思って取り組んでいます。


自らの文化を取り戻すために



「太平洋の防波堤」のDVDに収録されたインタビューによれば、リティ・パニュ監督はデュラスの反植民地主義やユートピアの考えに興味をもち、映画をつくるにあたってはデュラスよりもガンジーの寛容の哲学が背景としてあったそうだ。植民地主義は決して過去のものではなく、形を変えて現在も人々から収奪しているのではないか?ガンジーの唱える「単に与えるだけではなく、必要としていないものは奪わない、共に生きるための消費をする」という哲学は現代のわたしたちにとっても学ぶところが大きいのではないか、と。




ボパナ映像資源センターを2004年にオープンされ、カンボジアの人々が映像、映画作品に親しめる機会をつくられました。またセンターでは、アーカイブスとして、また、映像製作に携わる人材の育成といった重要な役割を持っています。Memory! International Heritage Film Festival in Cambodiaカンボジア国際映画祭など、すべての作品が入場無料で鑑賞できる機会をつくられています。また、映画館ではないところを巡回して上映する取り組みも行われています。普段なかなか映画を観る機会がない層にも観る機会が広がっていますか?その反響はどういったものですか?

リティ監督:
映画はみんな大好きみたいです。乾期のときに巡回上映は行っています。野外上映なので、雨季はできないので。子どもたち、お年寄りもそうですが、やはり映画を観るというのは想像する、想像力の体験ですから、体験する、夢を見るのはいいな、ということを経験することはみんなが享受していないといけないと思うんですね。記憶にアクセスする権利というのは当然のようにみなが享受すべきだと思います。そういう地方の村ではドキュメンタリーを上映してほしいという要望もあります。それはとっても大事なことです。自分たちの国で起こったことですから。みなさん、できない、できない、田舎の村では映画やダンスなど文化的に隔離されているみたいに言う人がいますけれども、そうではなくてやはり彼らが自らの文化を取り戻すためには、映画を観てもらったりするという機会を増やすのが大事だと思っています。

The Hollywood Reporter」による釜山国際映画祭での「アジアン・フィルムメーカー・オブ・ザ・イヤー2013」受賞後のインタビューで、カンヌ映画祭で受賞することの意義について、監督自身もイランのジャファル・パナヒ監督の軟禁の問題に触れられており、今回フィルメックスのオープニングでモフセン・マフルバフ監督も「イランや中国といった検閲のある国が存在することを忘れないでください」と語られました。日本では検閲は禁止されていますが、秘密保全法案という国家が秘密と指定した情報へのアクセスを制限する法案が法制化されようとしています(その後2013年12月6日、第185回国会で成立し、同年12月13日に公布)。今後日本でも予想されることですが、個人の創作活動を越えて、同じ芸術家として、政治的な困難を抱える他の作家をサポートすることが必要とされるとき、「語る」より「口を閉ざす」ことに慣れてしまっているとき、どのようにしたら、他者を守るために「語る」ことが可能となりますか。どのようなトレーニングが私たちには必要だと思われますか?

リティ監督:
それは少しずつ学ばなければなりません。勇気とか寛容さとかは、天から降ってくるものではないんです。それは持って生まれてくる、天性のものではないんです。でもわれわれは悪というものを身につけて生まれてくるわけでもないのです。でも我々は割とすぐに悪い方に陥りやすいですよね。だからわれわれがやるべきことは悪い方向に流されるのではなくて、逆の方向へ行くというふうに自分自身に身につけなければならない。寒くて、寒いと言っている人が道端にいても、ほとんど誰もその人に話しかけようとしないですよね。通りすがって終わり、という人がほとんどですよね。ひょっとしたら寒さで凍えているホームレスがいるとして、一人くらいは声をかける人がいるかもしれない。お米とかおにぎりとかを与えようという人がひょっとしたら一人くらいいるかもしれない。

リティ監督:
インターネット、飛行機など、いろんな科学が発達しているのに、どうしてまだ、凍えていたり、お腹を空かせている人が世界中にいるのでしょうか。そういうふうな人たちを救えるのは政治家ではないんです。やはりあなたたちなんです。普通の市民がそういう貧しい人たちにちょっと体を屈めて声を聞くとか、あるいは手を差し伸べるというのは、お上が決めることではなく、あなたたちの心から生まれてくるものです。もちろんそれは自然にできる行為ではありません。そうできるように、自分で訓練しなければなりません。

それは芸術に触れたり、ほかの国の文化に触れたりということでしょうか?

リティ監督:
もちろんそういうことも大事ですけれども、それ以前に、自分自身が寛容に、オープンマインドに心を開くということが大事ですよね。忘れてはならないのは、あなたがちょっとしたきっかけでホームレスや凍えている人の立場になるかもしれないということを頭に思い浮かべればいいのではないでしょうか。絶対自分に起こりえないことと思うのではなく、明日は我が身と思って、自分だったらそうなったときどうして欲しいかということを考えてみたら、行動に移しやすいのではないでしょうか。


君もやってみればいい。7分だし!君のペンで日本の映像作家にも伝えてよ!




国連を筆頭に貧困削減を目的とした開発行動目標である「ミレニアム開発目標」というものがあり、その期限が2015年に迫ってきました。ボパナ映像資料センターで取り組まれている映像作家によるアクション「one dollar project(1ドルプロジェクト)」について、どのような思いで始められたのですか?

リティ監督:
どうでしたか?貧困は削減できたんですか?国連は何もしてくれないですよ!(苦笑)もうずいぶん前からですよ。国連が世界の貧困に気づく前からですよ。国連はつい最近気づいたような感じで始めていますけれど、貧困は昔からありますよ。

リティ監督:
「one dollar project(1ドルプロジェクト)」であなたも一本いかがですか?東京にもやはりたくさん貧しい人は生活していますから、どういう風に稼いで、どういうふうに消費するのか、ということを取材してみては。株なんかで言うと、何百万ドル、何十万ドルという規模でお金が動いて、無くなっていきますけれど、それってわれわれには目に見えないじゃないですか。把握できない。では、1ドルの重みがどんなものなんだということを、ぜひ、あなたも映像に撮って参加してください。




映像作家、マルチメディアジャーナリストが1ドル以下の生活を日々一生懸命生きる人びとを取材して、経済的な不公平さを5〜7分の映像で表現し、社会を変革していけるようなグローバルな対話を目的としたウェブドキュメンタリープロジェクト。2014年12月31日まで募集中。
公式ウェブサイト:http://onedollar.bophana.org



リティ監督:
若い監督たちが意見交換する機会になるのではないかと思いましたし、一つのテーマを与えておいて、それをベースに若い人たちが自分たちの考えを、1ドルにはどういう意味があるんだ、ということについて若い監督たちが考える。一ドル稼ぐにはどういうような仕事が必要なのか、そういうことを考える。例えば映画の形はどんな形でもいいので、日本の経済学者や識者に1ドルはどういう意味を持っていますか?という質問をするとか、それでさえも一つの映画になりますよ。3分かけて彼らが話す。1ドルを稼ぐということはどういうことを意味するのか。どういうふうに人間たちが助け合えるか?そういうテーマでもいいんです。そういうふうなことを募るには、あなたのサイトで広めるのがいいでしょう。




東京フィルメックス2013 『消えた画 クメール・ルージュの真実』ジャパンプレミア後のQ&A。司会は東京フィルメックスプログラム・ディレクターの市山尚三氏。





 まさにこの旅の途中で、あの映像(イマージュ)ははなれて浮かびあがったのであろう、あの映像(イマージュ)が全体 から取り出されたのであろう。その像は現実に存在することができたかもしれない、写真を一枚撮るということがありえ たかもしれない、ほかの場合の写真はあるのだから。しかし、それは写真には撮られなかった。…それは省かれてしまっ た。忘れられてしまった。それだけがはなれて浮かびあがり、全体から取り出されることは現実にはなかった。この像が つくられることはなかったというこの欠如、まさにこの欠如態のおかげで、この像は、独自の力、ある絶対を表現してい るという力、まさしくこの像の産出者であるという力をもっている。

マルグリット・デュラス『愛人 ラマン』





インタビューを終えてから少し後で、筆者は『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 I-04』(2008年河出書房新社刊)に所収されているマルグリット・デュラスの『太平洋の防波堤』、『愛人 ラマン』を読んでいた。訳者の田中倫郎、清水徹両氏の解説にはっとさせられることになる。残念ながら監督とデュラスについて話すことはできなかったが、この「映画が生まれる瞬間(とき)『消えた画 クメール・ルージュの真実』をめぐる旅」はデュラスがひとつの大きなコンパスとなってくれている。清水徹の「『愛人 ラマン』解説」によれば、『愛人 ラマン』の草稿に初めに与えられていたタイトルが「絶対的な映像(L’image Absolue)」だったという。リティ・パニュの『消えた画 クメール・ルージュの真実』のフランス語の原題「L’image Manquante」とは、まるで共鳴し合うタイトルのようであった。



 僕はもう子供ではない、という考えが啓示のように僕をみたした。兎口との血まみれの戦、月夜の小鳥狩り、橇あそび、 山犬の仔、それらすべては子供のためのものなのだ。僕はその種の、世界との結びつき方とは無縁になってしまってい  る。

大江健三郎『飼育』(1958)




『消えた画』の公開を記念して、リティ・パニュ監督作品の特集上映が行われる。その一つ『飼育』(2011)は、大江健三郎(1935-)の1958年発表芥川賞受賞の同名短編を、太平洋戦争末期の日本の山村から、クメール・ルージュが政権を掌握する前夜の1972年のカンボジアへ翻案した作品である。冷戦の米ソ対立の中で中立を保とうとしていたシアヌーク政権。しかし、1963年の米国からの援助拒否、翌年の北ベトナムとの秘密協定による北ベトナム援護、1968年には米国との和解を進めるなど、ダヴィ・チュウの『ゴールデン・スランバーズ』(2011)で描かれていたような都市文化を花開かせ、人びとに愛された黄金時代から一転、民心の離れるような外交政策により、結局ヴェトナム戦争の泥沼からカンボジアを遠ざけるどころか、むしろ引き込んでいったのだった。米ニクソン大統領がヴェトナムからの撤退を約束し、1969年にはヴェトナムの隣国であるカンボジア領内の共産軍基地等への米軍による空爆が開始され、多くの若者が共産主義勢力の革命運動に駆り立てられるようになる。1970年にはクーデターにより、親米共和派ロン・ノル政権が誕生し、前政権のシアヌーク国王支持者もまたゲリラ運動に加わるようになっていた。クメール・ルージュはロン・ノル政権との内戦で、農村部で着実に勢力を拡大させ、首都プノンペンを包囲していく。地方からの避難民がプノンペンに流入し、都市機能、行政機能は破綻、汚職が蔓延していた。なぜクメール・ルージュが勢力を拡大させ、政権掌握までに至ったのか、農村の都市に対する憎悪がどのように増幅されていったのかという時代の転換点にあたる。

愛媛県出身の大江健三郎の『飼育』における「僕らの村」と「《町》」の人間のそれぞれに対する嫌悪感や憎悪、羞恥心の描写は、東京出身の筆者にとって、非常に鋭利なものであり、そのことがまた、カンボジアの都市と農村の憎悪に思いを至らせる。「敵」は初めから「敵」なのではなく、体制が政治がそのように強いる。政治によって決定される「正義」と自己の「敵」との関係性の中で築き上げられた「正義」との乖離を突きつけられるこの世界の現実。まさにこれについて、江藤淳が解説の中で当時出版された大江健三郎の第一作品集『死者の奢り』のあとがきに触れており、「これらの作品を通じての一貫した主題は、『監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考えること』であったという。ここでいう『監禁状態』とは、時代的にいえば一種の閉塞状態であり、存在論的にいえば『社会的正義』の仮構をみぬいたものの一種の断絶感である。」と述べている。『飼育』のもう一つの主題が少年時代の終焉という点でも『消えた画』へと継続され、監督自身の少年時代が語られることになる。



 被爆者たちが、手記を書きのこすということ、原爆に関わるすべての資料を整理、保存しようとすることは、いわば最も ストイックな自己証明、あるいは自己救済の意志による事業です。しかもそれは、われわれ、被爆しなかったすべての人 間の、今日の自己認識、明日の運命にむすびついている事業であって、すなわち、われわれは被爆者たちの計画を、畏敬 の念とともに側面援護すべきだと考えるのであります。

大江健三郎『ヒロシマ・ノート』(1965)





2011年の東京国際映画祭で『飼育』が日本で初めて上映された際の公式インタビューでリティ・パニュは初めに広島の作品を読み始め、他の小説を読むようになり、大江健三郎の一貫した反原爆、平和主義の活動を非常に尊敬していると応えている。筆者は日本人であるにも関わらず、今回の特集上映で『飼育』を観るにあたり、ようやく、自国のノーベル文学賞受賞作家大江健三郎の『飼育』から『ヒロシマ・ノート』を手に取った。「広島」はカンボジアに、「被爆者たち」はクメール・ルージュ政権からの生存者に置き換えられるのだった。1ページ、1ページ読み進めていくごとに、リティ・パニュは大江健三郎のことばに自身の人生への大きな肯定を覚え、勇気づけられたに違いない。



 広島はそれ全体がひとつの墓場だ、町のあらゆる隅々に慰霊塔がある、ごく小さい石のごときものにすぎないそれにし  ても。

大江健三郎『ヒロシマ・ノート』





田中倫郎の「『太平洋の防波堤』 解説」で『太平洋の防波堤』と『二十四時間の情事』について、「デュラスは、少女時代に見た平原のイメージが、無意識的記憶(レミニッサンス)として保存されていたからこそ、ヒロシマの町が屍体で埋まってゆくところが想像できたのだ。当人の思い出そうとする意志とは無関係な自然想起現象(アナムネーシス)である」と述べられている。また、デュラスの『二十四時間の情事』のフランスから来た女優のヌヴェールでの敵国ドイツ兵との愛の記憶は、『飼育』に見られるような江藤氏のいう大江健三郎作品の初期に一貫した主題とも重なるものであると言えるだろう。



 広島は女にとってヌヴェールの現在であり、ヌヴェールは男にとって広島の現在なのだ。レネはまず集団的な記憶から始 めた。たとえば、ナチスの強制収容所の記憶であり、ゲルニカの記憶であり、国立図書館の記憶である。しかし彼は、二 人における記憶、複数の人物における記憶の逆説を発見する。過去の様々な水準はもはや同じ人物、同じ家族や同じグル ープにかかわるのではなく、まったく異なる様々な人物にかかわるのであり、彼らはいわば通底不可能なもろもろの場所 であり、世界の記憶を構成するのである。

 …われわれは様々な年代の諸断片から一つの連続帯を構成する。二つの層の間で行われる諸変換を利用して、一つの変換 の層を構成する。…それは複数の間に一種の横断的連続性あるいは交通を作り出し、極限不可能な諸関係の集合を織りあ げるのである。このようにして、われわれは非時系列的な時間を解放する。あらゆる他の層をつらぬいて、もろもろの点 の軌跡、もろもろの領域の進化をとらえ、延長する一つの層を、われわれは引き出すのである。

ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』(2006)





ジル・ドゥルーズがアラン・レネを例に論じているように、それぞれ異なる地で生まれた同時代人であるリティ・パニュ、マルグリット・デュラス、大江健三郎の描写する、異なる時間の、異なる風景、しかし、共有されるイメージ、思い、生きることへの態度が重なり合う瞬間のあることをわたしたちは目撃する。その主題が、心象が、風景が、カノンのように、幾度となく、時代と国境を超えて、変奏されゆくのを、三者の作品の間で共鳴し合うのを聴くのである。ある国の歴史のなかの、一人の極私的な物語の一端が断固とした意思とともに世界へと開かれるとき、それは観る者が持つ記憶と想像力とをもって呼び起こし、「わたし」の物語として連なり、新たな命をもって生き始める。今回の旅の始まりには全く予期していなかった『ヒロシマ・ノート』には、デュラスの『愛人 ラマン』の冒頭に連なるような一節が記されている。



 わたしはよくあの映像(イマージュ)のことを考える、いまでもわたしがひとりきりになって見るあの映像(イマージ  ュ)、その話をしたことはこれまで一度もない。いつもそれは同じ沈黙に包まれたまま、こちらをはっとさせる。自分の いろいろな像のなかでも気に入っている像だ、これがわたしだとわかる像、自分でうっとりしてしまう像。

マルグリット・デュラス『愛人 ラマン』

  被爆したとき、村戸さんはほんの小さな子供だった。ケロイドが村戸さんの顔を変えた。そこで、成長した彼女の日々 の希望は、過去の、傷ついていない自分の顔を、見たいということであり、彼女自身の言葉を用いれば、《うしなわれた 美》を恢復したいということであった。健康のためというのではない、ただ、《うしなわれた美》をとりもどすための手 術を彼女はいくたびかうけた。その結果彼女が理解したのは、《うしなわれた美》が、ついに恢復されることはないとい うことであった。それらの手術のあと彼女は、広島の家の奥深くひそんで、じっと沈黙して暮らしている、ケロイドをも った数多くの娘たちのひとりとして生きるべく前途を考えるにいたった。
  このような、うしなわれた過去への指向と、それにつづく絶望の時は、いわば、人間をもっとも神経症的な深みに、近 づけるものであろう。そしてそのような危機的な状態の人々は広島に数多いことにちがいない。…
  村戸さんはどのようにして、後期や絶望のはての自殺や神経症的な隠棲から、自分自身を救助したのか? 彼女に回心 をもたらしたのは、原水禁世界大会の第一回目の集会であった。そこで彼女は、《苦しんでいるのは自分だけではない》 という基本的にして本質的な発見をした。被爆後の暗く長い沈黙の日々のあと、広島の人たちがはじめて声を発する機会 をえた第一回原水爆禁世界大会が、被爆者たちにとってどのように画期的なものであったか、それを僕はたびたび耳にし てきた。それは被爆者に人間的な自己恢復の契機をあたえ、同時に日本と世界の平和運動家たちの志にひとつの方向をあ たえるものであった。

大江健三郎『ヒロシマ・ノート』





先のインタビューで国連と口にして、監督が怒りの笑いをもらしたのだが、「The Elimination」ではその背景にあるエピソードが語られている。リティ少年が難民キャンプを経てフランスへたどり着いたとき、当時の国連事務総長に手紙を書いた。「なぜ、誰一人救援に来てくれなかったのか、わからなかった。なぜ、カンボジアは見捨てられたのか。…なぜ、子どもでしかも孤児である自分が、これほどまでに孤独だったのか」。「何もしないということが許せない」と。しかし、「彼からは返事がなかった。何もなかった。簡略な公式の文書すらもなかった」。1972年から1982年までの2期、国連事務総長を務めたクルト・ヴァルトハイムは、その後オーストリア大統領(1986-1992)も務めているが、第2次世界大戦中バルカン半島でナチス・ドイツ軍将校として、ユダヤ人の強制輸送に加担した疑惑のある人物であった。

『ヒロシマ・ノート』には大江健三郎が「僕の心をとらえてはなさない所以のもの、それは威厳の存在としかいいようがない」という老人についてのエピソードがある。そこで示される「人間の威厳」という、大江健三郎が「広島で発見した、もっとも根本的な思想だし、いま僕が自分の支えにしたいもの」について、おそらく監督は非常に強い共感を覚えたのではないだろうか。中国新聞が原爆記念日前後に特集掲載した『ヒロシマの証言』によって伝えられるその老人は、「フルシチョフが核実験再開を声明し、日本原水協がそれに直接抗議する勇気をもたなかった、あの憂鬱な一九六一年九月」に、核実験禁止のために原爆慰霊碑の前で割腹を試みるも失敗。老人の用意した「九通の抗議書はすべて、米、ソ大使館はじめ、あらゆるその抗議先で無視され」、「《とうとう生き恥をさらしてしまった》」と広島市民病院のベッドでくりかえしたという。



 …ひとりの被爆者の意識の宇宙には、突然に、ある夏のこと顕現した、絶対的な悪があり、そしてそれ以後、忍耐づよく それと拮抗して、この世界に人間的なバランスを恢復しようとする善があるはずであろう。原爆は、炸裂した瞬間、人間 の悪の意志の象徴となった。…徹底的な壊滅のあとの荒野には、善の意志が働はじめていたのであった。人間の善の意  志、再生、恢復への意志を体現する者たちの活動。それは、あるいは傷ついた被爆者たち、かれら自身の、生命への意志  であり、あるいはかれらを救護すべくまったくゼロの体験から出発した医師たちの努力だった。

大江健三郎『ヒロシマ・ノート』





大江健三郎がいう「あの人間の悲惨の極みについて沈黙し、それを忘れ去る権利を唯一もつ人びと」の一人であったリティ・パニュが、「人間は基本的には悪人ではない」という信念の下に語った「The Elimination」。そのエンディングで監督は「悪しき部分は記憶の中で、本の中で生きてもらおう」、しかし「過去の世界の良き部分」は「消しえないもの」であると記している。それは自身の少年時代や家族一人一人の佇まい、正義や自由、平等という考えといったものを含んでいる。無念の中で死した、しかし人間性を喪うことなく威厳を持って生きた人々の「凡庸なる善」の記憶は今もここにある。彼らの「日々の善の積み重ね」を伝え、その記憶を継承する。それこそが、わたしたちとともに今日を、明日を紡いでいくことになる。



 広島で生きつづける人びとが、あの人間の悲惨の極みについて沈黙し、それを忘れ去るかわりに、それについて語り、研 究し、記録しようとしていること、これはじつに以上な努力による重い行為である。そのために、かれらが克服しなけれ ばならぬ、嫌悪感をはじめとするすべての感情の総量すら、広島の外部の人間はそれを十分におしはかることができな  い。広島を忘れ、広島について沈黙する唯一の権利をもつ人たちが、逆にあえてそれを語ろうとし、研究しようとし記録  しようとしているのである。

大江健三郎『ヒロシマ・ノート』





リティ・パニュがカンボジアの歴史と記憶を見つめるにあたって通過してきたアウシュヴィッツやヒロシマ。時間的、地理的横断性、連続性とともに、人間の「凡庸なる善」や威厳に対する強い信念に基づいた、監督の映画にある力強く大きな表象可能性。ドゥルーズの「位相と時間」の映画論やそれが実践されている作品群はその普遍性によって、映画や文学という表象を超えて、わたしたちが国境を超えてともに考えるための表現の可能性を拡張させる。リティ・パニュはクメール・ルージュ体制によって経験した極私的な物語にふさわしい距離感、それを物語るためにふさわしい映画的語り口を得て、今のタイミングでこの映画『消えた画 クメール・ルージュの真実』にいたった。その「映画が生まれる瞬間(とき)」を巡る旅の終わりに、例えば、この日本に暮らす「わたし」が導かれたのは、監督から受けとめた「絶対の映像」とその背景にある哲学や精神を通して、日本の現在を、過去を、未来を、さあ、いかにして伝えようということであった。

2011年3月の震災直後に大江健三郎が米誌「The New Yorker」に「History Repeats(歴史はくり返す)」として掲載した、「原子炉の建造を通して過ちをくり返すことは、人間の生命への軽視は、広島の犠牲者の記憶に対する最悪の裏切りである」と訴えることば。経済や政治を最優先にして日本全体で緩やかに進行しつつある「人道に対する罪」を、人類の遺産である自然環境や生態系の破壊を目の前にして、映画『消えた画 クメール・ルージュの真実』をカンボジアの「悲劇の歴史」として、彼岸の物語として、その過去の一点にとどめておいてはならない、そのための勇気の一途となることを強く願うばかりである。




人間というのはいつも選択肢を持っていて、いかなる極限の状況にあっても、非人間化しない選択肢というのはあると思います。もし、命が危険に晒されているとしても、自分にとって良い選択をするべきだと思います。

リティ・パニュ



この映画『消えた画 クメール・ルージュの真実』「映画が生まれる瞬間(とき)」を巡る旅を可能にさせてくださったすべての皆様に心より深く御礼申し上げます。




【参考文献】
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岡田知子(2014)「【コラム3】リティ・パニュ」東京外国語大学東南アジア課程編『東南アジアを知るための50章』pp.223-225、明石書店。
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マルグリット・デュラス(1996)清水徹訳『北の愛人』河出文庫、河出書房新社。
マルグリット・デュラス(2008)田中倫郎訳『太平洋の防波堤』池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 I-04、河出書房新社。
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『ゴールデン・スランバーズ』原題: Le Sommeil d’or/ Golden Slumbers, ダヴィ・チュウ(2011)。
『アクト・オブ・キリング』原題:The Act of Killing、ジョシュア・オッペンハイマー(2012)。
『ネアック・スラエ、稲作の人びと』原題:Neak Sre, Les gens de la rizière/ Rice People、リティ・パニュ (1994) 。
『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』原題:S21, La machine de mort khmère rouge /S 21: The Khmer Rouge Killing Machine、リティ・パニュ(2002)
『焼けた劇場の芸術家たち』原題:Les Artistes du théâtre brûlé /The Burnt Theatre、リティ・パニュ(2005)。
「太平洋の防波堤」原題:Un Barrage contre le Pacifique /The Sea Wall、リティ・パニュ(2008)。
「ドゥイ、地獄の刑務所長」原題:Duch, Le maître des forges de l’enfer /Master of the Forges of Hell、リティ・パニュ(2010)。
『二十四時間の情事』原題:Hiroshima mon amour、アラン・レネ(1959)。
Interviews for Cinémoi, The French Movie Channel, with director Rithy Panh and actress Isabelle Huppert, A film by Rithy Panh, The Sea Wall (Un Barrage Contre Le Pacifique), axiom FILMS, 2008.
2014年6月21日放送、 NHK総合「おはよう日本」での「カンボジアに広がる沖縄・平和への思い」報道。





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隣人がチア・ヌウという映画監督でその撮影風景を見学していた。東京フィルメックスでのQ&Aで、2012年東京国際映画祭で上映されたダヴィ・チュウ監督の『ゴールデン・スランバーズ』のように、その監督の映画を今も観ることはできるのだろうか、という筆者の質問に、監督は「映画のポスターを見たことはあったけれど、彼の映画は観たことがありません。後に彼の二人のお嬢さんに会いましたけれど、父親の作品は見つかっていないようです」ということだった。





『消えた画(え)クメール・ルージュの真実』

 原題:L’Image manquante (英題:The Missing Picture)
 2013年/カンボジア・フランス/フランス語/HD/95分

 本年度アカデミー賞〈外国映画賞〉ノミネート作品
 第66回カンヌ国際映画祭<ある視点部門>グランプリ受賞

脚本・監督 リティ・パニュ 
製作 カトリーヌ・デュサール 
テキスト クリストフ・バタイユ 
ナレーション ランダル・ドゥー 
音楽 マルク・マーデル 
人形制作 サリット・マン
撮影 プリュム・メザ 
編集 リティ・パニュ、マリ=クリスティーヌ・ルージュリー
共同製作 CDP(カトリーヌ・デュサール・プロダクション)、アルテ・フランス、ボパナ・プロダクション 

協力:東京フィルメックス、現代企画室、シネマトリックス、ユーロスペース
配給:太秦


7月5日(土)〜 ユーロスペースにてロードショー


公式サイト:http://www.u-picc.com/kietae/


■■6/28(土)〜7/4(金)ユーロスペースにて■■
『消えた画 クメール・ルージュの真実』公開記念
虐殺の記憶を超えて−−−リティ・パニュ監督特集


上映作品
『さすらう者たちの地』(2000年)
『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』(2002年)
『アンコールの人々』(2003年)
『紙は余燼(よじん)を包めない』(2006年)
『飼育』(2011年)

協力:山形国際ドキュメンタリー映画祭、東京国際映画祭、東京フィルメックス、現代企画室、シネマトリックス、ユーロスペース

公式サイト:http://www.eurospace.co.jp/detail.html?no=572



リティ・パニュ

映画監督。
1964年、プノンペン生まれ。同世代の多くのカンボジア人と同様に、両親、兄姉、甥姪を、クメール・ルージュによる強制労働キャンプで飢餓と過労によって亡くしている。1979年、タイ国境の難民キャンプを経てフランスに渡り、パリにある高等映画学院(IDHEC)を卒業した。
2004年プノンペンにボパナ映像資源センターを開設し、映像、写真、録音といった歴史的な資産を保存することを目的にしている。センターの名称は、S21刑務所で拷問の上、殺害された一人の若い女性についてのドキュメンタリー『ボパナ、カンボジアの悲劇』から取られたもの。現在カンボジアとフランスを行き来し、映画製作を行いつつ、カンボジアの映画製作における人材育成や誰もが映画を観ることができるカンボジアでの映画祭の運営にも尽力している。

ドキュメンタリー映画『サイト2:国境周辺にて』(1989)で監督としてデビュー、難民キャンプで出会った女性の物語から発展させて、クメール・ルージュ政権崩壊後の農村の家族を描いた初の劇映画「ネアック・スラエ、稲作の人びと」はカンボジア映画として初めてカンヌ国際映画祭のコンペティションに出品された。長編劇映画2作目は、戦後復興の中で沸く都市経済の間で生きる若いカップルの悲劇を描いた『戦争の後の美しい夕べ』(1997、1998年カンヌ国際映画祭の〈ある視点〉部門に出品/1998年東京国際映画祭上映)。日本では初めての劇場公開作品となる最新作『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013)は、リティ・パニュとフランスの作家クリストフ・バタイユとの共著『消去 虐殺を逃れた映画作家が語るクメール・ルージュの記憶と真実』(2013年クラーケンウェル出版刊行、現代企画室より2014年7月初旬に刊行予定)にヒントを得た作品で、カンヌ国際映画祭の〈ある視点〉部門でグランプリを受賞した。ドキュメンタリーでは主に『ボパナ、カンボジアの悲劇』(1996、難民映画祭2007上映)、『さすらう者たちの地』(1999、山形国際ドキュメンタリー映画祭2001大賞)、『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』(2002、2003年ヨーロッパ映画賞最優秀ドキュメンタリー賞、山形国際ドキュメンタリー映画祭2003優秀賞)、『アンコールの人びと』(2003、山形国際ドキュメンタリー映画祭2005上映)、『焼けた劇場の芸術家たち』(2005、東京フィルメックス2005コンペティション部門上映)、『紙は余燼(よじん)を包めない』(2006、2007年ヨーロッパ映画賞最優秀ドキュメンタリー賞、山形国際ドキュメンタリー映画祭2007上映)、「ドゥイ、地獄の刑務所長」(2010)など。また劇映画では他に、「太平洋の防波堤」(2009、マルグリット・デュラス原作、イザベル・ユペール、ガスパー・ウリエル主演)、『飼育』(2011、2011年東京国際映画祭「アジアの風」部門上映 原作:大江健三郎)がある。

POSTED BY
Junko HONMA
Junko HONMA / Movie Journalist
「クリエイターとのダイアローグからそのさきへ。そんな“場”をつくっていけたら。」
2012年より映画の上映会や配信の運営、PR、TVドキュメンタリーの制作の現場を経て、“ことばで伝える”ことに立ち返り、表現を取り巻く状況が大きく変わりゆく時代の中で国内外で“領域”を越えて、新たな取り組みに挑戦しつづけるクリエイターのいまをお伝えします。本サイト「theatre tokyo/ creators park スペシャルインタビュー」ほか、ウェブマガジン『HYPEBEAST.JP』ではライフスタイル、カルチャーの翻訳を担当中。大阪の制作、エキストラで初参加させていただいた、リム・カーワイ監督作品『Fly Me to Minami~恋するミナミ~』DVD/iTunes配信も絶賛発売中!!