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台湾ニューシネマが拓いた新しい世界「台湾巨匠傑作選2016」

2016.05.10 up
写真台湾新電影時代メイン
       

6月10日まで現在新宿K’s cinemaにて大好評開催中の「台湾巨匠傑作選2016」。
2014年夏に開催された第1弾のラインナップに加え、今回見逃すことのできないのは、2015年大阪アジアン映画祭、アジアフォーカス・福岡映画祭での上映を経て、ようやく東京でも公開の台湾ニューシネマ誕生30周年記念ドキュメンタリー『台湾新電影時代』(シエ・チンリン、2014、原題:光陰的故事ー台湾新電影)。1980年代、台湾映画界の新しい潮流となり、以後、世界の映画人、観客に影響を与え続けるホウ・シャオシェン(侯孝賢)、エドワード・ヤン(楊徳昌)両監督が代表する台湾ニューシネマをめぐって、日本からは黒沢清監督や俳優、浅野忠信、映画批評の佐藤忠男を含め、世界の名だたる映画人、芸術家、批評家が語り、そのインパクトを浮き彫りにしていく。歴史的・地理的に関わりの深い対岸の中国、香港、そして日本、あるいはヨーロッパが、それぞれの距離感でどのように台湾ニューシネマをとらえてきたか、その違いも非常に興味深いものとなっている。

台湾は、映画監督の出身や作品がそれぞれ表しているように、歴史的な言語・文化・社会的背景の一言で語ることのできない複層性を、現代の地方都市あるいは都市生活者のある家族の暮らしを通して、愛と孤独、断絶、そして受容の中に観ることができる。
50年に及んだ日本の植民地統治、1945年の日本の敗戦と台湾の中国復帰を経て、1949年、国民党政権の中国共産党との内戦の敗北によって、国民党とともに200万人もの人々が大陸から渡ってきて、台北が中華民国の臨時首都となった。
1947年広東省梅県生まれの客家であるホウ・シャオシェンは1948年に、そして同年上海生まれのエドワード・ヤンは1949年に一家で台湾に移り住んでいる。このように1945年以降に大陸から台湾に渡ってきた人々を外省人と呼ばれる。本プログラムでは上映されないが、1961年に実際に起きた同級生男子による女子中学生殺人事件をモチーフとしたエドワード・ヤンの『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(1991、英題:A Brighter Summer Day)では、戦後しばらく経ってもなお日本統治時代の名残が見え隠れする台北の暮らしの中で、戒厳令下、本省人と外省人の対立と、大人社会の、そして家庭の先行きの見えない不安定さから忍び寄る闇が思春期の少年少女を通して描かれる。台湾を代表する脚本家として、俳優として両監督の作品に関わり、日本統治時代に日本語で教育を受けた世代の父親を描いた『多桑 父さん』(1994)で監督デビューもしているウー・ニエンチェン(呉念真)は戦前から台湾に定住していた本省人家庭の生まれ。エドワード・ヤン監督の助監督を務めた、ウェイ・ダーション(魏徳聖)は、日本統治下の台湾で起きた原住民族の武装蜂起「霧社事件」を『セデック・バレ』(2011)で部族語中心に描いている。あるいは、東南アジアから学生時代に台湾へ渡ってきたマレーシア出身のツァイ・ミンリャン(蔡明亮)、ミャンマー出身のミディ・ジー(趙徳胤)。そして、本省人の家庭に生まれ、アメリカへ渡り、デビュー作『推手』(1991)でアメリカの華人社会の一様を描いたアン・リーがいる。

もし、アメリカの映画批評家ジョン・アンダーソンのインタビューが映像として残っていたら、エドワード・ヤン本人の言葉が『台湾新電影時代』の中で語られていたかもしれない。

「台湾ニューウェーヴがなぜぼくたちの世代なのか、突然ひらめいたんです。ぼくたちは、世界中のあらゆる映画を観て育った世代でした。フェリーニやブレッソンを。(…)ぼくたちは映画をたくさん吸収して育ったんです。」
ジョン・アンダーソン著、篠儀直子訳『エドワード・ヤン』2007年、青土社

台湾ニューシネマは、台湾映画界で助監督の経験のなかったエドワード・ヤンの劇場公開デビュー作「指望(希望)」を含むオムニバス映画『光陰的故事』(1982、英題:In Our Time「われらの時代」)からスタートした。アメリカ、次いで日本が中国と国交を回復し、台湾が国際的に孤立した時期のこと。国民党一党独裁も弱まり、台湾の映画産業が低迷していた1980年代初めに、国民党系の中央電影公司の製作で、当時新人の若手監督がある程度の自由さをもって、政治、歴史、社会、言語について、それまでにない、ありのままの台湾の人々の生活を描き始めた。ウー・ニエンチェンの企画・脚本で、ホウ・シャオシェンは郷土文学作家、黄春明(ホワン・チュンミン)の三編の短編小説を原作としたオムニバス映画『坊やの人形』(1983)の表題作を、台湾語(閩南語:多数派の母語)で描く。1960年代までは台湾語の映画は制作されていたものの、1950年代後半から台湾では、学校を含め、公共の場での国語の使用が、1970年代後半にはメディアでの方言の使用も制限されることになった。そのため、映画のセリフの半分以上が国語である北京語でなければならないという規制があった時代、検閲ギリギリの作品となった。
同監督の自伝的作品である『童年往事 時の流れ』(1985、脚本:ホウ・シャオシェン、チュー・ティエンウェン)では、主人公、阿孝(アハ)は家庭内では客家語、友だちとは台湾語、学校や公共の場では国語を使い分けているという台湾のリアルな日常を表現。大陸にある故郷へ帰りたくとも帰れないまま台湾の地で亡くなる祖母に、政治が個人の人生に与える影響を感じさせる。台湾政府が中国大陸への里帰りを解禁するのは1987年のこと。また、玉音放送で始まる基隆を舞台とした『悲情城市』(1989、脚本:ウー・ニエンチェン、チュー・ティエンウェン)では、1987年、40年近くにわたる戒厳令が解除されたこともあり、それまでタブーとされてきた1947年の2.28事件をめぐる家族の悲しみを描き、自らのことばで歴史を語る。2.28事件では外省人による政治的支配への台湾人の不満を武力弾圧し、多くの人が虐殺され、その後の国民党一党独裁の恐怖政治の時代へ突入していく。ヴェネツィア映画祭でのグランプリ獲得もあって、台湾でも検閲を経て公開され、2.28事件の時代考証的な批判も含め、大反響を巻き起こす。民主化までは今しばらくの時間を必要としていた。昨年東京フィルメックスで本作が上映された際のQAで、ホウは主人公演じるトニー・レオンがろう者の役であった理由を、香港スターを起用することが出資の条件だったが、彼が北京語も台湾語も話せなかったために、そのように調整したと語っている。

『台湾新電影時代』のインタビューで、タイを代表するアピチャートポン・ウィーラセタクンは、この『童年往事』を観て、「個人の記憶に価値がある」ということに強く感銘を受け、「故郷に戻って撮りたいと思った」と語る。現在日本でも劇場公開中の新作『光りの墓』(2015、タイ語原題:コーンケンでの愛)は、アピチャートポンの故郷であるタイ東北部コーンケン県で撮影されているものの、現在のタイの軍事政権下における政治状況と、作品自体にコーディングされた強い政治性ゆえに、監督自ら本国での公開を考えていない作品だ。先月渋谷のシアター・イメージフォーラムで開催された上映後のトークイベントでも、バンコクでシネフィルが集まるオルタナティブスペース「The Reading Room」ディレクターのナラワン・パトムワットさんと『光りの墓』のタイ語字幕翻訳を担当し、タイ文学研究の福冨渉さんの対談で、映画で話される東北タイの方言(イサーン語)と国語としてのタイ語におけるヒエラルキー、政治性について語られた。台湾における北京語と台湾語の状況と同様に、タイでも政府の国民教育の政策によって、イサーン語も家庭や友だちとの言語であり、学校や公的な場ではタイ語として使い分けられている。

同じく『台湾新電影時代』のインタビューで『童年往事』で個人の記憶が描かれるのを観て、「撮りたいものはこれだ!」と思った是枝裕和は、自身の父親が台湾・高雄出身で、マー・ジーシアン監督の『KANO 1931海の向こうの甲子園』(2014)で描かれる嘉義農林学校の出身だそうだ。今回特別上映されている是枝のテレビドキュメンタリー『映画が時代を写す時ー侯孝賢とエドワード・ヤン』(1993)は上映の機会が今後もあることを願う作品だ。その中で、ホウ・シャオシェン監督は「自分やもっと若い世代は台湾の歴史的背景を知らない」、また、「中華民族とは何かを探し続け、映画で表現したい」と語り、エドワード・ヤン監督は「空白の時代をできるだけ映画にしたい。自分が映画にしなければ、人々から忘れ去られる事件。映画が証人としてある」と歴史への眼差しが語られている。『台湾新電影時代』で「香港では台湾の激動の10年を知らなかった」という香港の批評家ラウ・ワイミン(羅維明)によれば、「激動が早すぎて脚本も書けず、映画も残っていない」というエドワード・ヤンの幻の企画があったという。

さて、現代の台北の都市生活者やその家族の孤独を描き、台湾ニューシネマ第2世代とされてきたツァイ・ミンリャンが、『台湾新電影時代』の中で「自分はそこに入るとは思わない。私は私。義理も責任もない」ときっぱりと答えていることに驚かされる。こちらも本プログラムでは上映されないが、昨年の東京フィルメックスで上映された監督ツァイ・ミンリャンと、彼の全作品の主演を演じてきた俳優リー・カンション(李康生)とのダイアローグを記録した『あの日の午後』(2015)は、上映後の監督とリー・カンションのQAによれば、『郊遊 ピクニック』(2013)に関連した本の企画のための対談で、「文字に書き起こしたときと映像は違うものになっていた」ので映画にしたという作品。『郊遊 ピクニック』で劇場公開のための長編映画製作からの引退を宣言しているが、ツァイ・ミンリャンは、そのQAで「撮り続ける条件はリー・カンションがいること」と述べている。台湾の雑誌『誠品好読』(2008年1月)でジャ・ジャンクーと対談しているツァイ・ミンリャンが「李康生のリアルな変化。かれは劇映画でもあり、ドキュメンタリーでもあります」と語るように、街で出会って主演に起用した自身の長編デビュー作『青春神話』(1992)以来、作品を通して俳優リー・カンションが年を経ていく様を追い続けたドキュメントとしても、今回のプログラムで一連の作品を通して観るのもおもしろい。

『台湾新電影時代』で、ホウ・シャオシェンは「台湾ニューシネマは広がりを見せなかった」と語る。中華圏映画としては、しかし、私たちはシンガポールのアンソニー・チェンの『イロイロ ぬくもりの記憶』(2013)、マレーシアのエドモンド・ヨウの『破裂するドリアンの河の記憶』(2014)に個人の記憶と歴史への眼差しから丁寧に描いていくことが受け継がれているのを観る。そこでは東南アジアの経済成長とアジア経済危機、あるいは政治的な弾圧が、一国内だけではなく、東南アジア域圏として、個人の人生や家庭に与える影響が直接的に、間接的に描かれる。『台湾新電影時代』で上海で6人の警察官を殺害して死刑となった男性の母親について描いた『私には言いたいことがある』発表以来、亡命中のイン・リャン(應亮)からは「なぜ僕は香港にいるんだろう」という言葉がこぼれる。東南アジアでも、未だ触れることがタブーであり、家族の歴史であっても自らのことばで語ることのできない現代史を抱えている。台湾ニューシネマは、直接的な批判を用いずに、歴史の中に、まずは自らのアイデンティティの所在を見つめるというところから新しい時代を切り拓く可能性へとなったのではないだろうか。現在『山河ノスタルジア』(2015)が公開中で、故郷山西省を中心に経済発展や産業構造の変容の中で翻弄される個人を描いてきたジャ・ジャンクーは『台湾新電影時代』で台湾ニューシネマの「運動の原動力となったのは、互いの親近感、支え合い」だったと考える。

アンソニー・チェンは『イロイロ』が企画の時点から東京フィルメックスのネクスト・マスターズ(現タレンツ・トーキョー)2010で講師であったホウ・シャオシェンにアドバイスを受け、同プログラムをともに受けていたフィリピンのシャロン・ダイオク(Sheron Dayoc)にフィリピンでのキャスティングオーディションをサポートしてもらい、同じく同期で、それまでにアン・リーやツァイ・ミンリャンの助監を務めていた、マレーシアのシャーロット・リム(Sharlotte Lim Lay Kuen)を助監に迎え、カンヌ映画祭でカメラドールを、台湾金馬奨で四冠を得た。『破裂するドリアンの河の記憶』の録音を担当したソラヨット・プラパパンもタレンツ・トーキョー2015で監督としての自身の企画で参加している。タレンツ・トーキョーは今年も11月下旬に開催予定であり、今後もこのような新たなネットワークが生まれていくことが期待される。

最後に、大学留学以降、11年間をアメリカで過ごしたエドワード・ヤンに対して、作品へのアメリカの影響についてたずねている、ジョン・アンダーソンによる2000年前半頃のインタビューのことばで締めくくりたいと思う。16年経った世界の「いま」の状況は残念ながら色あせていないどころか、さらに悪化しているとも言える。私たちは新たなムーヴメントで流れを変えることは可能だろうか。

「というわけで世界はいまや、明らかに目に見える線によって分断されてしまっています。一方の側には知を享受する人々がおり、他方には知を恐れる人々がいる。知を享受する人々は、みな多くのものを交換しようとし、人生を有意義なものとしています。知を恐れる人々は、釣り合いの取れないものを釣り合わせるため、急進的なものに訴えざるをえない。
 不幸なことに、知を恐れる集団のなかの圧倒的多数が、亀裂を利用するこのごく少数の人々のせいで、知と教育を実際に奪われる被害者になってしまっています。この同じ少数者たちはあらゆる手を使い、良心的な少数の人々を最悪の搾取者、すなわちほとんどがアメリカ企業であるビッグ・ビジネスと同集団に分類することで、世界をミスリードしています。われわれは映画を愛しています。なぜなら、映画はさまざまな人々を普遍的言語で結びつけてくれるからです。」
エドワード・ヤン
ジョン・アンダーソン著、篠儀直子訳『エドワード・ヤン』2007年、青土社



台湾巨匠傑作選2016
~世界の映画作家に影響を与え続ける台湾ニューシネマの世界~

会期:~2016年6月10日
会場:新宿K’s cinema
公式サイト:http://taiwan-kyosho2016.com




【参考文献】
ー 亜洲奈みづほ『現代台湾を知るための60章【第2版】』明石書店、2012年
ー ジョン・アンダーソン、篠儀直子訳『エドワード・ヤン』青土社、2007年
ー 笠原政治・植野弘子編『アジア読本 台湾』河出書房新社、1995年
ー 上原輝樹 「OUTSIDE IN TOKYO」エドモンド・ヨウ『破裂するドリアンの河の記憶』インタヴュー  http://www.outsideintokyo.jp/j/interview/edmundyeo/index.html
ー 加藤浩志「銀幕に多様な社会を描きだす」『地域研究 Vol. 13 No,2 総特集 混成アジア映画の海 時代と世界を映す鏡』京都大学地域研究統合情報センター、2013年
ージャ・ジャンクー、丸川哲史・佐藤賢訳『ジャ・ジャンクー「映画」「時代」「中国」を語る』以文社、2009年
ー 田村志津枝 岩波ブックレット NO.175 『台湾ニューシネマの旗手 侯孝賢の世界』岩波書店、1990年
ー 同上『非情城市の人びと 台湾と日本のうた』晶文社、1992年
ー 野津隆志『国民の形成 タイ東北小学校における国民文化形成のエスノグラフィー』明石書店、2005年

POSTED BY
Junko HONMA
Junko HONMA / Movie Journalist
「クリエイターとのダイアローグからそのさきへ。そんな“場”をつくっていけたら。」
2012年より映画の上映会や配信の運営、PR、TVドキュメンタリーの制作の現場を経て、“ことばで伝える”ことに立ち返り、表現を取り巻く状況が大きく変わりゆく時代の中で国内外で“領域”を越えて、新たな取り組みに挑戦しつづけるクリエイターのいまをお伝えします。本サイト「theatre tokyo/ creators park スペシャルインタビュー」ほか、ウェブマガジン『HYPEBEAST.JP』ではライフスタイル、カルチャーの翻訳を担当中。大阪の制作、エキストラで初参加させていただいた、リム・カーワイ監督作品『Fly Me to Minami~恋するミナミ~』DVD/iTunes配信も絶賛発売中!!